たくさん悩んで新昭和

ウィザースホームで新築(2013年12月完成)しました。家づくりのことたくさん書いてます。

綱渡りと認知症

はてなブログ5周年ありがとうキャンペーンお題第2弾「5年後の自分へ」
http://blog.hatena.ne.jp/-/campaign/hatenablog-5th-anniversary

性懲りもなくキャンペーン第2弾にも参加してみようと思います。5年後は個人的に大きく変わる転換期になってます。ずっと目指してきた目標のゴール地点だし、もう一つは最近感じている人生の終わりに近づいているんじゃないかという不安がよぎります。

 

人生は綱渡り

人は皆ギリギリの戦いというか、ほんの少しバランス崩しただけで破たんするようになっています。誰しも目の前の課題をギリギリ乗り越えるというか、一生懸命頑張ってようやく次のステップに進めるようプログラムされているような感じなんですが、こんなに大変なのは私だけ?と思ったところで皆同じなわけです。よく平等なのは時間だけという話しを耳にしますが、ちばっしーが思うに「課題を乗り越えるときの大変さ」が平等という感じですね。

課題そのものの大小はあるにせよ、乗り越える人の器にちょうど良いサイズになってるので心配ご無用なんですが、「こんな仕事は俺のやることじゃない」とか「他の人生に憧れる」なんてよそ見していたら、あっという間に転落するようになっています。でも、自分に降りかかる全てを受け入れて進めば、誰でも確実に渡れるようにもなっています。

ちばっしーは13年前に今の仕事を始めてから、自分の綱だけを見て慎重に綱渡りしてきたんですが、それはもう緊張の連続でした。最初の1年目なんか年収にして20万円ですからね。家賃は毎月14万円払っていたので大赤字でした。普通に生活出来るようになったのは3年目以降で、途中から家建てる夢が加わったので色んな制約の元(節約とか)ここまで来れたわけです。

それが5年後は住宅ローンの完済と子供の巣立ちという、人生の2大出費が終わる訳です。5年後は今まで経験したこともない豊かな生活が待ってると同時に「人生の終わり」も意識せずにはいられません。

 

認知症の原因

カミさんの親は認知症です。お義母さんは本当に強い人でカミさん兄弟を女手一人で育ててきました。何一つ贅沢せず仕事してきて腰を痛めてリタイヤして千葉で同居してから認知症という流れなんですが、認知症の原因って案外身近というか、自分にも降りかかるリアルな問題という感じがします。

認知症の原因は諸説ありますが、個人的に感じてる一番の原因は「安心」です。

昔の人はとても苦労したので、豊かになることが成功の証しという人が多いです。年老いたら子供たちに面倒見てもらい悠々自適に暮らしていくのが勝ち組的な生き方で、ひっそりと孤独死するのは悲惨で負け組みたいに捉えがちですが、これは単純に決めつけられないです。ハッキリしてきたのは、若いころ夢見た「豊かさ」や「悠々自適」や「勝ち組」みたいな理想郷なんてどこにもなかったということ。

人は不安に思っていたり緊張しているときこそが、人生そのものを謳歌してるようなもので、不安や緊張から解放されてしまうと一気に命が終わりに向かっていくように思います。まるで細胞たちが役割を終えたことを理解したかのように、各パーツの電源を落としていく感じですね。

これは多くの人が戸惑ってるんじゃないかと思う。安心を求めてひたすら頑張ってきたのに、心から安らげる世界なんてどこにもないというか、目の前の苦労からようやく解放されたと思ったら、夫の名前が思い出せないとか、お金はたくさんあるのにご馳走が食べられないとか、あんなに夢見たバラ色の老後が全く期待外れだったということ。

もっと古い人たちは満足に栄養が取れないまま身体を酷使していたので、これほど長生きしてないことを考えると、これは現代人が初めて経験することなのかも。

 

認知症の対策

まずは「安心したい」とか「ラクしたい」いう思いを持たないこと。そんな理想郷なんてどこにも存在しないというか、たぶん寿命を全うすれば嫌というほどあの世で安らげると思うので、今は非現実的なことは考えないこと。そして自分の得意なことを中心に活躍の場を見つけることだろうと思います。うっかり引きこもって脳トレなんかやっていても、細胞の方が勝手に死に向かっていってしまいます。

個人的に「苦労」というのも違和感があるというか、どのレベルの生活を苦労と呼べるか人それぞれなんですが、ちばっしーは年収20万円でも苦労したと思ってないです。カミさんはちばっしーよりも貧乏耐性が強く、周りからは「仕事を立ち上げて苦労したでしょう」とか「生活苦しかったでしょう」とか言われますが、周りが思ってるほど苦労していないというのが正直な感想です。生活に余裕がなければ家族が密接につながるし、無駄な付き合いが無くなれば雑音が減るし、より目の前の課題へ集中しやすい環境が整います。あとはガムシャラに頑張るだけという、人生で最も貴重な時間を過ごしたと思っています。

もしかしたら苦労なんてないんじゃないの?とさえ思えるようになっていて、お金がないなら、それなりの生活をすれば良いだけです。ありもしない苦労をでっち上げて引きこもるより、自分が活躍できる場所を見つけるほうが100万倍大切ですね。

 

緊張しているときだけが自分の人生

緊張にも色んな種類があるんですが、全て不慣れなモノへの挑戦という形でないと緊張感は伴わないです。普通はおっくうになるので一歩踏み出す勇気も必要でしょうね。

手っ取り早いのが仕事だろうと思います。ボランティアも良さげなんですが、お金をもらった方が本物の緊張感が得られると思う。年取っても働いているとかミットモナイというより、最後の最後まで人が喜ぶ顔を想像しながら仕事出来る人が、本当の勝ち組なんじゃないかと思う。

こうして考えると、生きる目的は「豊かになるため」とか「安定するため」ではないということが見えてきます。誰もが人の役に立つことが宿命づけられていて、それはどのような形で貢献するかは自由なんですが、余裕かまして動いたぐらいじゃダメで、緊張するほど頑張ってやっと人様の役に立てるという感じになっています。

将来いくら貯金したら安心出来るかなと考えるより、緊張感を持続させることのほうがよほど大切に思えるし、それには勇気が必要だし、何より定年間際までの役職にこだわらない(プライドを捨てる)ことのほうが、人生を全うするには大切に思えます。

 

5年後の自分へ

これだけ安心するなよ!とか、緊張しとけよ!と散々書いてきても、人生どう転んでいくか分からないわけです。仕事で大きな事故を起こして低迷していくとか、住宅ローンを一括返済した直後にヒャッハー!となって生活が派手になっちゃうとかw

今分かっているのは、緊張感を持てるところで頑張らないと劣化していくということと、自分だけの利益に特化していくと必ずシッペ返しが待っているということ。そして、大きな安心を得すぎるというのは、身体の細胞が死に向かって加速していくということにつながり兼ねないということ。

昔どこかで見たセリフで「安定を求めてプレーするな、それが最も危険な行為である」という言葉が腑に落ちるんですが、たとえ収入や住まいが安定しても、細胞がいきいき出来ない(心躍らない)のであれば意味がないということ。

5年後は49歳です。ボケるにはまだ若いし、出来ることなら心身ともに充実させて、新たなステージで綱渡りしていることを望みます。