たくさん悩んで新昭和

ウィザースホームで新築(2013年12月完成)しました。家づくりのことたくさん書いてます。

20年前の迷いと決断

およそ2年半年振りに更新します。本編ネタを書く前に「りっすんブログコンテスト2019」のテーマ#「迷い」と「決断」で肩慣らしと思ったら、内容が古すぎて今の人たちには何の参考にもならないかもしれない。

けれど、せっかくだから真剣に書く。

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ちばっしーにとって青山一丁目の交差点は特別な場所で、たぶん死ぬ間際の走馬灯の中にも出てくると思う。ここは初めて社会人として通勤していた場所で、およそ5年間働いていた。安定した業界の会社で仕事環境は良好、先輩や上司も良い人ばかりで何の不満もなかったが、それが返って不満になっていったのかもしれない。

幼いころから得意な科目はなく運動もイマイチというより、三月生まれが災いして同学年に追いつくのがやっとという感じである。唯一目立ったところは絵画で、写生会とかあればコンクールに入選していたが、これには裏があって、元々は母親に手伝ってもらった絵(下書きの半分だけ自分が描いた)が特賞を取ってしまい、以後一人で猛特訓して何とか上手に見せかける絵を描けるようになっただけの話し。得意げな顔などひとつも出来ない状況であった。

この世で最も頑張った絵画でさえ、母親の背中を追いかけるだけのもので、本気で情熱を傾けることとは雲泥の差であった。そうした都合の悪いことがバレないように、そして同級生に置いて行かれないように過ごしていた子供時代ではあったが、暗い記憶はあまりない。なぜか友達には恵まれていて、幅広く仲良くしてもらったというか、これは三人兄弟の末っ子の取り柄かもしれない。

三月生まれの末っ子の影響があるのかないのか、そもそも自分で考える機会がないから迷うことはないし、重要なことは周りが決めてくれる。他力本願でだらだらと生きてこられたのは、幸い中の不幸か。

そんなこんなで大人になり、会社員になり、変化の少ない毎日に滅入っていたころ、バイク便に出会った。会社には毎日のようにバイク便が荷物を届けに来てくれたが、その時に初めて「出会った」と感じた。

 

とにかく酷いどしゃ降りだった。

配達に来たバイク便ライダーはロン毛&タトゥーでちょっと強面な感じなのだが、受領サインをしようとしたとき異変に気づいた。ライダーはずぶ濡れの手をタオルで拭こうとするのだが、うまく拭けないというか、あまりの寒さに手がかじかんでるようだった。この暖かいオフィスの中で、ずぶ濡れのイカツイ男が震えているというのは異様な光景であった。

伝票をめくる手もやっとという感じで、鬼気迫る雰囲気に圧倒されながらサインした。外に出たライダーはヘルメットをかぶり、赤くかじかんだ手にグローブをはめるわけだけど、もはや中身もびしょ濡れなはず。

ちばっしーもバイクに乗るので雨や寒さの辛さは分かるけど、バイク便ライダーのそれは度を超えすぎていた。それは仕事だからと決めつけるには、あまりにも辛い仕打ちに思え「なぜ、そこまでして」という理由を繰り返し考えていて、どしゃ降りの中に消えていくバイクの尾灯を見ていたとき「ああ、あの人たちは守られていない」と悟った。

 

そうだ。ずっと守られ続けてきたのだ。面倒な仕事も、何なら会社の面接も「中身のない頑張り」で乗り切ってきたけれど、全ては母親の絵を真似したあの頃とそっくりだ。周りを偽っているような、どことなく後ろめたい気持ちを積み重ねていっても、涼しい顔して笑っていられるし、飢えることもない。

バイク便ライダーの震える手には偽りがなかった。たったそれだけのことなのに、居ても立っても居られなくなった。よく「いつか本気出す」とは言ったもんだが、ほとんどの人は肝心なところがバレないように温存してる振りをすると思う。ちばっしーは「本気出しても大したことがない」という諦めが子供の頃から揺るぎないから、考えたこともなかった。

ゆえに目の前の人がギリギリの状態で頑張ってる姿にショックを受けたのだ。バイク便ライダーの冷えきった手に宿した「こっち側は本気を出さないと生きられない」というメッセージが、自分の心へ導火線のように伝わってきてドカーンと破裂した。

 

「出会い」の一件から相当迷い続けた。

というのも世間はバブルが弾けたばかりで就職難の時代、せっかく入社できた会社を辞めて良いものかどうか。今とは違って年功序列が信じられていた時代だ。

それでも辞めたい気持ちが強くなっていったのは、守られない世界への憧れに尽きる。あんな過酷な天気でバイクに乗れるだろうか、こんな軟弱者が怖そうなバイク乗り集団の中でやっていけるのか、そもそも完全歩合制で食べていけるのか、という不安は消えなかったが、そうした環境に食らい付いていく自分を見てみたいという欲求が日に日に強くなっていった。会社からの帰り道、青山一丁目の交差点を通るたびに「これが会社最終日だったらどんな気持ちだろう」というシミュレーションもよくやった。

最後は誰にも相談せずに決めた。仲良かった家族にも何も伝えなかった。

退職日の挨拶では涙が止まらず、感情を抑えようとしても面白いようにわんわん泣いて「あれれ?俺はこんなに会社が好きだったの?」と思えるほどにぐしゃぐしゃになった。まさか涙で腫らした目で青山一丁目の交差点を眺めるとは思ってもみなかった。

 

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半年後、バイク便会社で班長の役職をもらっていた。

危険を伴う仕事で完全歩合制と聞くとどう思うだろうか。不安定で大変?キツイ?実はこれがとんでもなく面白くて、すっかりライダー稼業に溶け込んでいた。

ライバルはおよそ350名、各営業所には個人の売上高がグラフ化されて熾烈な競争が繰り広げられていた。最低限のルールを守れば後は自由だけど、周りと一緒のように仕事していると平凡な結果に終わってしまうので、周りがやってないことをやろうと考えた。

まず都内の地図を暗記して渋滞ポイントと時間帯を把握、主要な得意先の入館経路もノートに記録していった。これで荷物を受けてから届けるまでの時間を大幅に短縮出来た。そして時間帯別に荷物の出やすい地域に山を張ることで売上高が倍増し、とんとん拍子に10位以内に上り詰めて半年足らずで班長になったというわけだ。

会社員の初任給は20万円ぐらいだったと思うが、当時のバイク便は3倍近くもらえていた。同じ営業所には役者や歌手志望の人がいて、よく演劇に行ったりライブに行ったりもしていて、彼らの熱い気持ちに触れる機会も多かったが、まだ自分が何者になるかなんて想像は出来なかった。これまで25年間もボーっと過ごしてきたのである。とりあえず今は本気を楽しむこと。目の前のことに精いっぱいエネルギーを注ぐことだけを考えた。

ライダー稼業3年後には営業所の所長になり、翌年エリア長になり、さらに翌年にバイク便会社の営業部に異動になって部長になった。長い間、他力本願で生きるしかないと思っていたのに、いざ自分で決断してみたら面白いように的中していく夢のような時間だったように思う。

その後は得意先の仕事を手伝ううちに、今の自分の会社を起業する運びになった。今の仕事はバイク便とは関係ないけれど、絵心ないと出来ない部分が多く、母親の背中を追いかけた「中身のない頑張り」も妙なところで実を結ぶ形になった。


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たまに会社作るってすごいとか、すごいところに目を付けたとか色々言われるけど、何てことはない。人生の一大事は日常に潜んでいて、バイク便の震える手がきっかけで本気になれただけの話し。

でもこれを人に話すと、まず共感されない。多くは「どのような計画をしたか」とか「夢を追いかけられた理由」的なサクセスストーリーを期待するけど、何もないのが真実だ。目の前のことに夢中になれるだけで何の心配もいらないというか、会社を作ろうが、サラリーマンであろうが、お金とかも関係ない。夢中になれるだけで、あとは計画なんかしなくても勝手に目的地へ連れていってくれる。

それを知らなかった頃は、待遇や安定を求めて会社選びしてきたけれど、それでは心が安定しないというか、おそらく会社員に向いている人は器用に割り切れる人なんだろうと思う。中には割り切れない人たちがいて、ちばっしーもその中の一人だった。

会社を辞めるときにわんわん泣いたのは、上司や先輩が好きだったという理由もあるけど、それよりも親の期待や、兄や姉との関係性が全て終わるような気がしたんだと思う。友達もそうだ。もうカラオケに行ったりキャンプしに行くことも無くなるという覚悟があった。あの日は25歳までに形成された世界からの卒業だったのだ。

現に親は絶句してしばらく実家に出来り禁止になったし、姉も口を聞いてくれなくなった。兄だけはやさしかったな。友達も想定通り希薄になっていって、もはや守られない側に生きていることは明白であった。おかげで思う存分エネルギーを開放してこれたように思う。

元通りに近い関係に復帰出来たのは、会社を辞めてから10年以上は経過してると思う。少し残念なところは、上記で述べたこれまでの流れが誰にも理解されないところ。親にはどんなに説明してもダメで「本当は東京で食べて行けてないんだろ」とか疑われ続けてきたので、思い切って車をプレゼントしたら、とりあえず安心してくれたようだった。

友達とは、会社を辞めてから行方不明状態に近かったので、毎回同じ話しをするのが悩みの種でもある。会社を辞めた理由から今の仕事まで、説明するのも一苦労なのだが、なにより理解されないところがシンドイ(毎回、会社が好きなら辞めないだろとか言われる)。いっそこのブログを見せれば理解してもらえるんだろうか。

 

今の会社は創業16年目、たった7名の小さい会社だけど昨年は過去最高益を出して、そりゃブログは書けないよね、というぐらい忙しかった。今は迷いそのものは少なくて、限られた選択肢を手繰り寄せるような毎日である。そう、唯一クタクタになるまで迷ったのは最初の会社を辞めるときであった。

今となっては、あの決断のおかげで天職を見つけられたわけだが、なぜだろう。青山一丁目の交差点を通過するたび、いまだに心の中でちくっとしたものを感じる。

 

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2019.7.14 守られない世界の続編みたいな内容を書きました ↓

tibassyi.hatenablog.com

2019.7.20 おかげさまで、この記事がブログ大賞に選ばれました ↓

tibassyi.hatenablog.com